伝道者2章
2:1 私は心の中で言った。「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」しかし、これもまた、なんと空しいことか。
私は、心の中で言った。さあ、来れ。私は、あなたを喜びによって試す。見よ。良いものによって。しかし、見よ。これもまた、空しい。
初めに、神の前に良いとされているものについて、論じました。この喜びは、快楽ではなく、続く「良い」という語によって、神の目に適った喜びを表しています。しかし、これも空しいと結論づけました。あなたを試すと言いましたが、人は、そのようなものは、空しくはなく、価値あるものだと思っています。しかし、そのようななことさえ空しいと言うのです。
・「良い」→神の目に適って良いこと。
2:2 笑いか。私は言う。それは狂気だ。快楽か。それがいったい何だろう。
笑いについて、私は言った。それは、自慢だ。そして、喜びについて、これは、何をすることなのか。
笑いは、その人が満たされて出てくるものです。しかし、それは、自分を誇る自慢であるのです。自分にとって良いものが来たことで、笑いが出るからです。笑いは、良いものに見えて、実は、自分中心に物事を考えていることからきます。また、喜びは、その人を満たします。しかし、自分のためです。
ここには、創造主に向けられた視線がないのです。喜びであれ、悲しみであれ、あらゆることにおいて、神への賛美があり、栄光を帰すべきです。創造主抜きで論じた時、良いものに見えるものが空しいのです。
2:3 私は心の中で考えた。私の心は知恵によって導かれているが、からだはぶどう酒で元気づけよう。人の子がそのいのちの日数の間に天の下ですることについて、何が良いかを見るまでは、愚かさを身につけていよう。
私は、心の中で探求した。肉を葡萄酒で引きずること、そして、自分の心を知恵によって導くこと、そして、人の子について、彼らがその命の日数に天の下ですることで、どこに良いことがあるかを見るまで、愚かさを掴んでいることを。
そして、人がすることで何が良いかを見極めるために、その方法を示しています。肉は、欲望に従って行動する部分ですから、葡萄酒によって引きずることにしました。その探究は、辛いものですが、葡萄酒で乗り切ろうとしました。心は、神の御心受け入れ従う分別としての知恵で導くことにしました。ですから、探究することは、神の御心に適ったことです。人の子についても、「良い」ことを見極めるのであり、この「良い」ことは、神の目に適った良いことです。
2:4 私は自分の事業を拡張し、自分のために邸宅を建て、いくつものぶどう畑を設け、
私は、自分の事業を拡張した。また、自分のために宮殿を建てた。また、自分のために葡萄畑を設けた。
2:5 いくつもの庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果樹を植えた。
私は、自分のために庭園と果樹園を作った。また、その中にすべての果樹を植えた。
2:6 木の茂った森を潤すためにいくつもの池も造った。
自分のために、成長している木々の茂みを、そこから灌漑するための水の池を作った。
2:7 私は男女の奴隷を得、家で生まれた奴隷も何人もいた。私は、私より前にエルサレムにいただれよりも、多くの牛や羊を所有していた。
私は、男奴隷と女奴隷を購入し、家で生まれた子たちが私にいた。さらに、私には、エルサレムで私の前にいた誰よりも、牛と羊の家畜が非常にたくさんあった。
2:8 私はまた、自分のために銀や金、それに王たちの宝や諸州の宝も集めた。男女の歌い手を得、人の子らの快楽である、多くの側女を手に入れた。
さらに、私は、自分のために銀と金と王たちの宝と諸州(の宝)を集めた。また、私は、自分のために男の歌い手たちと女の歌い手たちと人の子らの喜びである妻と妻たちを得た。
・「側女」→意味不明。
2:9 こうして私は偉大な者となった。私より前にエルサレムにいただれよりも。しかも、私の知恵は私のうちにとどまった。
そして、私は、偉大になった。そして、エルサレムで私の前にいた誰よりも(偉大さを)増大させた。
2:10 自分の目の欲するものは何も拒まず、心の赴くままに、あらゆることを楽しんだ。実に私の心はどんな労苦も楽しんだ。これが、あらゆる労苦から受ける私の分であった。
私は、私の目の求めるすべてのものを拒まず、私の心をどのような喜びからも抑えなかった。なぜならば、私の心は、私の労苦の全てから喜びに満ちた。そして、これが私の労苦の全てから受ける私の分であった。
2:11 しかし、私は自分が手がけたあらゆる事業と、そのために骨折った労苦を振り返った。見よ。すべては空しく、風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。
そして、私は、私の手がなしたすべての業に関して、なすことのために労苦した労苦を振り返った。しかし、見よ。全ては空しい。そして、風を追うことだ。そして、日の下には、益はなにもない。
彼が成した全ての業と、そのための労苦は、全て空しいのです。益がありません。しかし、今でも多くの人がこのようなことを追求しているのです。彼らは、それが空しいことにまだ気付いてはいません。
2:12 私は振り返って、知恵と狂気と愚かさを見た。そもそも、王の跡を継ぐ者も、すでになされたことをするにすぎない。
そして、私は、知恵と、狂気と、愚かさを見るために、振り返った。なぜならば、王の後から来る者は、何を。すでに彼らが行ったことを。
彼は、自分のしたことについて、知恵と、狂気と、愚かさを見るために、振り返った。それを判断するためです。後半は、その理由を説明しています。それは、次のような反論を想定してのものです。ソロモン一人の経験でそのようなことを判断できるのか、と。可能であるその理由を説明しています。この後来る王たちも、すでに行われたことをするからです。ソロモンにまさったことはしないと。
後半には、動詞が二回省略されています。その動詞は、「行う」です。最後にたった一度だけ、「行った」と記すだけにしています。
2:13 私は見た。光が闇にまさっているように、知恵は愚かさにまさっていることを。
そして、私は、光が闇よりも益があるように、知恵は、愚かさよりも益があることを見た。
2:14 知恵のある者は頭に目があるが、愚かな者は闇の中を歩く。しかし私は、すべての者が同じ結末に行き着くことを知った。
知恵のある者は、頭に目。そして、愚かな者は。闇の中を歩む者。そして、私は、一つの出来事は、彼らの全てに起こることも知った。
知恵は、神の御心を受け入れて従う分別です。愚か者にはそれがありません。知恵ある者は、信仰の比喩としての目があり、それによって物事を判断します。愚か者は、真理の光としての神の言葉がありません。彼は、闇の中を歩む者であるのです。それとともに、この地上のことを考えるならば、一つの出来事がすべての人に起こることも確かです。すなわち、肉体の死です。
2:15 私は心の中で言った。「私も愚かな者と同じ結末に行き着くのなら、なぜ、私は並外れて知恵ある者であったのか。」私は心の中で言った。「これもまた空しい」と。
そして、私は心の中で言った。愚か者に起こるようにそれが私にも起こる。そして、その時、私に、より知恵があったことは、何なのか。それで、私は、心の中で強く言った。これもまた空しい、と。
愚か者に死が来ます。そのように、自分にも死が来ます。それで、生きている間、より知恵があったことは、なんなのか、と問うています。創造者の最終的な裁きを抜きにして判断するならば、この地上の歩みは、知恵ある者にも、愚か者にも死で終わるのですから、知恵が豊かであることに意味がなくなります。すなわち、神の言葉を受け入れて従う分別を働かせることに意味がないことになります。そうであるならば、知恵があることは空しいのです。
信者が、神の裁きを心に留めて生きることをしないことは、ここでの結論のように空しいのです。信者であっても、この世のことに心を囚われた生き方になるのです。神の言葉に従うことの価値が分からないのです。
2:16 事実、知恵のある者も愚かな者も、いつまでも記憶されることはない。日がたつと、一切は忘れられてしまう。なぜ、知恵のある者は愚かな者とともに死ぬのか。
なぜならば、知恵ある者の記憶も愚か者のそれも永遠にはない。日々がが来ると、全ては忘れられた。そして、どうして、知恵のある者は、悪者とともに死ぬのか。
それは、知恵ある者も愚かな者も忘れられるからです。地上で生きることに関しては、なんの違いもないのです。
2:17 私は生きていることを憎んだ。日の下で行われるわざは、私にとってはわざわいだからだ。確かに、すべては空しく、風を追うようなものだ。
私は、その生を憎んだ。なぜならば、日の下で行われた業は、悪であるからだ。なぜならば、全ては空しく風を追うことだからである。
彼は、今まで生きてなしてきたことを憎んだのです。それは、私には悪であるからです。それが悪であることは、全てが空しいからです。一つも価値あるものはないからです。
2:18 私は、日の下で骨折った一切の労苦を憎んだ。跡を継ぐ者のために、それを残さなければならないからである。
そして、私は、私が日の下で労苦したすべての労苦を憎んだ。私は、私の後から来る者にそれを残すからである。
そして、その労苦を憎みました。それは、その労苦した業を後から来る者に残すからです。
2:19 その者が知恵のある者か愚か者か、だれが知るだろうか。しかも、私が日の下で骨折り、知恵を使って行ったすべての労苦を、その者が支配するようになるのだ。これもまた空しい。
誰が、その者が知恵ある者かあるいは愚かな者か知ることになるだろうか。そして、彼は、私が労苦し、日の下で知恵によってなした私の労苦を支配する。これもまた、空しい。
後から来る者については、どのような者であるか知ることができません。知恵があるのか、愚かな者であるのか分からないのです。そのような者に多くの労苦を費やした業を渡さなければならないことは、空しいことです。
2:20 私は、日の下で骨折った一切の労苦を見回して、絶望した。
私は、自分が日の下で労苦したすべての労苦に、自分の心を絶望させるために方向転換した。
彼は、ここで方向転換します。今までは、何が良いことかを見極めるために心の中で探究をして来たのです。しかし、今は、絶望したのです。
2:21 なぜなら、どんなに人が知恵と知識と才能をもって労苦しても、何の労苦もしなかった者に、自分が受けた分を譲らなければならないからだ。これもまた空しく、大いに悪しきことだ。
なぜならば、ここには、一人の人がいる。彼は、知恵と知識と優れた能力によって労苦したものを、労苦しなかった者に、労苦したものについて、自分の分を与える。これもまた、空しく、大いに悪いことだ。
自分が大いに労苦したことが知恵と知識と優れた能力によって成し遂げられたものとして表現しています。しかし、その労苦の結果を、なんの労苦もしない者に渡すことになります。それは空しく、また、悪であるのです。
2:22 実に、日の下で骨折った一切の労苦と思い煩いは、人にとって何なのだろう。
なぜならば、人にとって、日の下での彼のべての労苦と心の探求は、何なのか。
すべての労苦と心の探求は、なんの益もないのです。それで、空しく悪なのです。
2:23 その一生の間、その営みには悲痛と苛立ちがあり、その心は夜も休まらない。これもまた空しい。
なぜならば、すべての日々は、痛みで、その労働は、怒り。夜の間も彼の心は横たわらない。これもまた、空しい。
すべての日に痛みを感じます。それは、労働に伴うものであり、怒りとなって現れます。自分では、どうにも制御できないことであるからです。彼の心が休まらないことについて、空しい、と。ここでは、創造者抜きに考えています。もし、神が全てを与えていることを信仰によって知るならば、痛みを受けても、怒りはないのです。
2:24 人には、食べたり飲んだりして、自分の労苦に満足を見出すことよりほかに、何も良いことがない。そのようにすることもまた、神の御手によることであると分かった。
人には、食べたり、飲んだり、彼の労苦の中でたましいに良いものを見せることよりも良いものはない。これもまた、私は、神の手からのものであるのを見た。
人にとって良いものは、食べたり、飲んだり、労苦の中でたましいに良いものを見せることです。食べる飲むは、体の満足です。ただし、次節から、神から離れたら楽しむことができないことが説明されていますので、神にあって、食べ、飲むことです。たましいが見る良いものは、霊的な歩みにおいて見る神の目に適った良いものです。それらは、悪いものではありません。しかし、ソロモンは、神の裁きを抜きにして、この地上のことにだけ目を留めることの空しさを明らかにしています。
2:25 実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができるだろうか。
なぜならば、わたしなしで、誰が食べ、誰が楽しむのか。
「わたし」は、神のことです。誰にも絶対ないということを強調するために、ソロモンの思索の言葉としてではなく、神の宣言として記されています。前節の食べ、飲むことを喜びとすることも、神なしではできないと説明されていて、前節は、神に従う中で食べ、飲み、たましいに良いものを見せることとして記されています。それが人に良いことです。
2:26 なぜなら神は、ご自分が良しとする人には知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神が良しとする人に渡すために、集めて蓄える仕事を与えられるからだ。これもまた空しく、風を追うようなものだ。
なぜならば、神の目に適った良い人に、神は、知恵と知識と喜びを与える。しかし、罪を犯している者には、神の前に良い者に渡すために、集めて蓄えるための仕事を与えられるからだ。これもまた空しい。風を追うことだ。
前節で、神を離れて喜びはないことが説明れていて、ここには、そのことについてさらに詳細に説明されています。罪を犯している者は、良い者に渡すための仕事が与えられます。悪き者は、そのことを知らずに自分のために一生懸命働いているつもりでいます。それが空しいことです。